幻夜 - (EPUB全文下载)
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表紙
目次
本文
目 次
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
第九章
第十章
第十一章
第十二章
幻夜
東野圭吾
第一章
1
薄暗い工場の中に工作機械の黒い影が並んでいる。その様子は雅也
に夜の墓場を想起させた。もっとも、親父が入れる墓はこれほど立派なものじゃないがとも思った。黒い影たちは主を失った忠実な召使いのようにも見えた。彼等はたしかに雅也と同じ思いで、しめやかにこの夜を迎えているのかもしれなかった。
湯飲み茶碗に入った酒を彼は口元に運んだ。茶碗の縁がわずかに欠けていて、それが唇に当たる。飲み干した後、ため息をついた。
横から一升瓶が出てきて、彼の空いた茶碗に酒が注がれた。
「これからいろいろと大変やろうけど、まあ気い落とさんとがんばれや」叔父の俊郎
がいった。顎を包むように生えた髭には白いものが混じっている。顔は赤く、吐く息は熟れた柿の臭
いがした。
「おっちゃんにも、何かと世話になったな」心では全く思っていないことを雅也はいった。
「いや、そんなことはええ。それより、これからどうするのかなと思てな。まああんたは腕を持ってるから仕事に困ることはないやろうけど。西宮
の工場で雇てもらうことになったそうやな」
「臨時雇いや」
「臨時でもええがな。今の時代、働き口があるだけましや」俊郎は雅也の肩を軽く叩いた。そんなふうに触られるのさえ不快だったが、愛想笑いを返しておいた。
祭壇の前ではまだ飲み会が続いていた。雅也の父である幸夫
が生前親しくしていた三人組だ。工務店主、鉄屑業者、そしてスーパー経営者という顔ぶれだった。麻雀仲間で、よくこの家に集まってきたものだ。景気がよかった頃には、五人で釜山
あたりに出かけていった。
今日の通夜に姿を見せたのはこの三人と親戚数名だけだ。雅也が各方面に知らせていないのだから当然ともいえたが、仮に知らせたところで大した違いはなかっただろうと彼は想像している。取引先の人間は無論、同業者たちだって来てくれるわけがない。親戚にしても、下手に長居して金の無心でもされたら厄介だとばかりに、線香を上げたら早々に退散していった。親戚で残っているのは母方の叔父の俊郎だけだが、彼がなぜ帰らないかについては雅也にも見当がついている。
工務店のおやじが日本酒の瓶を空にした。彼等にとって最後の酒だった。残っているのは俊郎が大事そうに抱えている一升瓶だけだ。工務店のおやじはコップ三分の一ほどの酒をちびちびと舐
めながら俊郎の酒を見ていた。俊郎はストーブのそばに腰を落ち着かせ、するめを齧
りながら一人で飲んでいる。
「ほな、そろそろ失礼しょうか」鉄屑業者が切り出した。彼のコップはとうの昔に空になっていた。
そうやな、ぼちぼち、と他の二人も尻を浮かせた。
「雅ちゃん、そしたら、帰るわ」工務店のおやじがいった。
「今日はお忙しいところ、ありがとうございました」雅也は立ち上がって頭を下げた。
「大したこともでけへんと思うけど、何かわしらにできることがあったらいうてや。力になるさかいな」
「そうや。おたくの大将には世話になったよってなあ」鉄屑業者が横からいう。スーパーの商店主は黙って頷いている。
「そういうてもらえると心強いです。その時はよろしくお願いします」もう一度頭を下げた。老いの目立ち始めた三人の男たちは頷いて応じていた。
彼等が帰ると戸締まりをし、雅也は部屋に戻った。工場と繋がっている母屋には、六畳の和室と狭い台所、そして二階に二間続きの和室があるだけだ。三年前に母の禎子
が病死するまでは、雅也は自分の個室を確保できなかった。
祭壇の置かれた和室では、俊郎がまだ酒を飲んでいた。するめがなくなったらしく、工務店主らが残していったピーナッツに手を伸ばしている。
雅也が散らかったものを片づけ始めると、俊郎は呂律
の怪しい口調でいった。「調子のええことぬかしとったな」
「えっ?」
「前田のおやじらや。できることがあったらいうてくれ、力になる、とはなあ。ようあんな心にもないこといえるで」
「単なる社交辞令やろ。あのおっちゃんらもそれぞれに火の車や」
「いやそうでもないで。前田なんか、細かい仕事で結構小金を稼いでるはずや。幸夫さんを助ける程度のことはできたと思うけどな」
「おやじも、あの人らには頼みとうなかったんやろ」
雅也がいうと俊郎はふんと鼻を鳴らし、口元を歪
めた。
「そんなことあるかい。雅ちゃんは何も聞いてへんねんな」
俊郎の言葉に、雅也は皿を重ねていた手を止めた。
「ダライ盤の支払いで不渡り出しそうになった時、幸夫さんは真っ先にあの三人に相談しよと思たんや。ところが連中はどこから嗅ぎつけたか、揃って居留守や。あの時、誰かがたとえ百万でも出してくれとったら、えらい違
うてたで」
「おっちゃん、その話は誰から?」
「おたくの親父さんからや。景気のええ時はええ顔して近づいてきた連中も、ちょっと左前になったらころっと態度を変えよるいうて怒ってたで」
雅也は頷き、片づけを再開した。初耳だったが、意外な話でもなかった。彼は元々あの三人組を信用していなかった。死んだ母も嫌っていた。母の口癖は、「相手変われど主変わらずで、うちのお父ちゃんばっかり金を使わされてる」というものだった。
「なんか、腹減ってきたな」俊郎が呟いた。一升瓶の酒はとうとうなくなったようだ。ピーナッツの入った皿も空になったので、雅也はそれも盆に載せた。
「なあ、何か食うもんないか」
「饅頭やったらあるけど」
「饅頭かあ」
顔をしかめる俊郎を後目
に、雅也は汚れた食器を載せた盆を台所に運んだ。それらを流し台に置いていくと、すぐにいっぱいになった。
「ところで雅ちゃん」後ろで声がした。ちらりと振り向くと、いつの間にか俊郎が台所の入り口に立っていた。「保険屋とは話したか」
ついに本題に入ってきたかと思いながらも ............
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